個人の時間、宇宙の時間。
今週は不思議と時間の流れがややゆっくりと進行しているように感じます。早く感じる時もあれば遅く感じる時もあるというのはどういうことなのか。そんなことを考えてみるのも面白い。 通常、忙しい時、集中している時、楽しい時間を過ごしている時は、あっと言う間に時が過ぎてしまう。逆に、暇な時、楽しくないことをしている時は、早く時間が過ぎないかと思うほどゆっくりに感じられる。 誰にとっても平等に与えられた24時間、365日なのに実際には感じ方が一人一人違うし、その時々の状況で違う。 時間の感じ方なんてどうでも良いと思う方がいるかもしれませんが、感じ方によっては精神に影響が出てくる。「まだ時間がある」「もう時間がない」「暇でどうにもならない(時間が有り余っていて)」とか、時間とは焦りや緊張感、心の余裕を生むなど、大きく私たちの精神に影響を与えています。 アインシュタインが時間とは絶対的なものではなく相対的であると言ったのも納得ができる。 もちろん博士の相対性理論は別のことを言っていますが、時間とは誰にとっても同じではないという意味で、私たちの日常においても宇宙の真理を垣間見させてくれる現象があると言えます。 さて、僕自身の感覚では以前より忙しく、時間がいつもないという感じ方は常にあります。それでもやらなければならない義務の仕事を終えて一段落すれば心に余裕が生まれます。一時であっても緊張感から解放されれば、時間は再びゆっくりと流れるようになるのです。 「与えれられた時間は平等である、しかし時間の使い方で 足りなくなることもあれば、十分に足りることもある」 私たちは、時間に主導権を握られてはならない。時間は自らコントロールするべきだと思います。 アメリカのホピ族やアフリカのある部族などには時間の概念を表す言語がないと言う。もちろん季節や時の流れは理解しているが、年齢も数えることがない。私は何歳?あなたは何歳?などはどうでも良いことなのだ。 なぜ私たち先進国のほとんどの文化では年齢を数えるのでしょうか。それは知っておいた方が都合が良いからでしょう。学校への入学、健康診断、成人と未成年を分けることなど便宜上のため。それらの社会制度が必要なければ年齢は考えなくても勝手に時間は流れ誰もが年を重ねてゆく。 もしかしたら私たちは、生という有限の時間に縛られているのかもしれない。あと10年、あと半年、あと一週間、など常に有限の時間を考えている。もし私たちの命が有限でなく無限であったらどうだろうか。 誰もがのんびりと穏やかに過ごす世界になるのだろうか。 もしかしたら何もする気が起きないかもしれない。急いで何かに取り組まなくても時間は無限にあるのだから。 有限であると知っているから、かけがえのない時間だと知っているから、人はその限られた時間を無駄にするまいと思う。 人間以外の生物にはそのような時間的概念はない。個々の生き物としてではなく種全体のために生きているからだろう。私たちも個々というより、種全体として生きていると考えれば永遠に人間という種の命は続く。 さらに宇宙という生命の中の一員と考えたらどうだろう。 私たちは個々の時間と宇宙的な時間の両方を生きていると考えてもいいかもしれない。 瞑想する時も、個々の時間をはなれ宇宙の時間に身を委ねてみるのも良いかもしれない。「私は」という常につきまとう個人的意識から、宇宙的な意識へと広がってゆく時の心身の解放感。特に瞑想という技術を使わなくてもイマジネーション豊かな人であれば体験できるのではないでしょうか。
Namaskar i